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    一度房一は家中の眼をぬすんで一人で馬を引き出したことがある。彼は馬小屋の壁の横木によぢ登つてそこから馬に乗らうとしたが届かなかつた。考へた末に木箱を幾つか探して集めてそれを段々に積み重ね、その上から馬の背に渡らうと試みた。それはうまく成功した。馬は彼にとびつかれて始めは驚いて二三度首を振つたが、彼が次兄の日頃やる通りの真似をして落ちついて、短い足で何度か蹴ると、馬は思ひ出したやうに足を踏み出した。

    房一は苦が笑ひをした。

    彼は自信を失つた。それにこの苦痛と動揺は明らさまに説明しにくい、説明したところで判つてもらへない種類のことだつた。房一はそれを盛子の妊娠の揚合にも経験した。

    その時、千光寺の住職がひよろ長い姿を現はした。彼はたつた今さつき剃そつたばかりのやうな青いつるつるな頭をしていた。今夜の主役だといふ意識がさうさせたのだらう、もつともらしい儀式ぶつた表情のまゝ、彼は集つた人達には目もくれずにまつすぐに仏壇の前に進んだ。だが、そのひきしめたつもりの口もとにはあの真白い偉大な反そつ歯ぱがのぞいていた。

    こういう不便が多々ある代りに、むかしの温泉宿は病を養うに足るような、安らかな暢のびやかな気分に富んでいた。今の温泉宿は万事が便利である代りに、なんとなくがさついて落着きのない、一夜どまりの旅館式になってしまった。一利一害、まことに已やむを得ないのであろう。

    「だいいち、あすこの小倉組の親方といふのがね、うちの店へもたまに買物に来るんだが、鬼倉といふ綽名がある位でね、見たところ痩せつぽちのさう強さうもない奴なんだけどね、すごいんださうだ。――こないだも郵便局で見た人があるんださうだが、配下の者が何かしつこく不服を云つたら、いきなりかう、二本の指でね――」

    「どれ一つ診ませうかな。――ふうむ、これあどうしたのかね、ハッパでやられたのか」

    「いや、さういふことは人によつてはあるんだよ」

    「へえ。――ズブツとね」

    それは言葉にするとこんな風なものであつた。

    若しもこの時誰かが、この男、徳次に向つて君はこの奥さんの幼い時に抱いたり負んぶしたりしたことがあるのかねとからかひ半分に訊いたら、彼は本気になつて考へこみ、何かしらそんなことがあつたやうに思ひ出し、信じこんだかもしれない。何しろ彼は房一とあんなに親しかつたのだ。盛子はその房一の奥さんだつた。してみれば、やはり古い以前から知つているも同然ではないだらうか。抱きかゝへてあやしたこと位あるかもしれない。

    云ひながら、腹帯の中からまるで金入れとは思へない位に大きな蟇口をとり出すと、十円札を何枚かつかんでいた。そして、ろくに返事も聞かないで房一に押しつけた。

    「わたくし儀ぎ、金がなければお前様まえさまとも夫婦になれず、お前様の腹の子の始末しまつも出来ず、うき世がいやになり候間そうろうあいだ、死んでしまいます。わたくしの死がいは「た」の字病院へ送り、(向うからとりに来てもらってもよろしく御座ござ候。)このけい約書とひきかえに二百円おもらい下され度たく、その金で「あ」の字の旦那だんな〔これはわたしの宿の主人です。〕のお金を使いこんだだけはまどう〔償つぐのう?〕ように頼み入り候。「あ」の字の旦那にはまことに、まことに面目めんぼくありません。のこりの金はみなお前様のものにして下され。一人旅うき世をあとに半之丞。〔これは辞世じせいでしょう。〕おまつどの。」

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